大きな絵

まとめようとしてまとまらなかったエントリ。
昔、大きな絵(A4紙にでっかく顔だけとか)を描くのに凄く苦手意識がありました(今でも、だけどさ)。というのも、画面を大きくとることによって広がった記録容量に対して、自分が絵を描くネタとして持っている情報量が少なくなってしまって負けている感じがしていたから。写真を引き伸ばして粒子が粗くなってしまうような感じでしょうか。大きな絵を描くには、それに負けないだけの、情報量を獲得してないと駄目なんだなぁ、と感じたわけでして、それは正しいのかなと思っています。

以前にも書いたような内容になりますが。。。デッサンって対象を画面に写し取る手の練習のように思われがちですが、実際は対象を観察して捉える目を鍛える訓練なのだそうです。写真みたく正確に、正確に描きとってゆくと、なんか無機質に過ぎるつまんない感じになってしまい、対して、画面に写らない裏側の構造なんかを観察して理解した上で描いてみると、とたんにイキイキしてくる、みたいな。眼で見た画像を脳みそで処理してから認識する人間の構造上、脳みそに正しい情報が無いと、下手なフィルタがかかって実際のものとは異なってきてしまう、そんな理由だったりするのかなと思ってます。

そんなわけで、脳のイメージを正確に紙に描いてゆく手の訓練も重要ではあるのですが、脳内にどれだけ正確なイメージをつくりだせるか、ちうのもさらに重要な課題であるようです。アレ?書き出してみると当たり前のことのような…。ともあれ、正確なイメージをつくるために必要なのは、元となるネタの正確な情報、つまりそれまでの人生にどれだけきちんと物をみつめてきたかを問われているわけですね。これって、別段絵を描くことに関係ないわけで、そうか、あの「いやあ筆を握って1年目なんですよ〜」とかいいながらスゲエ絵を描いていやがる連中は、つまりは今までの人生でそれだけ沢山の対象を色々な角度から見つめ、情報を蓄えてきたわけなんすね。くそー、俺が漫然と生きてる間にそんなことを…。

そんな感じ。

余談1。まっすぐな線をフリーハンドで引いたり、物を等間隔に配置したり、構図をキメたりといったのが、多分手を動かし続けることでのみ獲得できる技術なのかなと思ってます。

余談2。パッと見、上手い絵じゃないんだけど、なんか凄まじい情念を感じる…みたいな絵が好きなんですけど、これって手の技術が伴ってなくて脳内情報が表現しきれてないけど、高い情報のポテンシャルを感じさせる、ていう状態なのかもしんないと思いました。