ゲームに触れると云うこと

幼少の頃は、(ビデオ)ゲームってとってもワクワクさせられるもので、ただ、ゲームというだけで良かった。ただ、ゲームを触ってゐるだけで面白かった。それが、星(=モニタ上の白い点)の瞬く宇宙空間(=黒いモニタ画面)上の宇宙船(=@記号とか)が上下左右キーによって任意に動くだけのものでさえ楽しかった。ただ、自分の操作したように動くだけで面白かった。ただ、キャラがジャンプするだけで面白かった。ただ、麻雀に勝つとえっちいCGが表示されるだけで面白かった。

だが今、ワタクシがゲームを遊ぶ上で、ボタンを押してモニタ上で核ミサイルが発射されようと、中国忍者が肉片をばら撒いて死のうと、萌えキャラがエロい声をあげようとも、それほど感動をおぼえるとは思えない。誰がボタンを押しても結果が同じならば、如何に過激なアウトプットがされようとも、刺激への喜びはあれど、達成に対する感動は得られない。ワタクシがゲームを遊んで面白いのは、練習の末高い壁を乗り越えたときであり、状況を自分の思い通りに組み立てられたときであり、他人を打ち負かしたときである。ゲームが面白いのは、自分の能力や判断によってゲームの展開が変化し、競い合うことが出来る点にあると云えよう。…と、コスティキャン*1先生も仰ってゐるようだ。

が、それが全てとは思えない。やはり、ゲームは触ってゐるだけで楽しい必要はある。得点を上げるために、パターンを試行錯誤し、練習する。結果、得点が上がる…。確かに、楽しい要素ではあるが、それだけのために試行練習を続けるものだろうか。いや、鳥をあぶるのが楽しいのであり、カブトガニを倒してゐるのが楽しいのであり、ドリーム砲台座を破壊するのが楽しいから試行練習が続くのだ(全部ガレッガかよ)。ただ触ってゐるだけで楽しい、と云うのは、初級上級を問わず全てのユーザに訴えかける、重要な要素であることは間違い無いだろう。

…と云う話は既に誰かが仰ってゐたので、今更ワタクシが語っても仕方ないことに今更気付いた。あやや

*1:ゲームの中の偉いひと