個性に価値をつけること

個性だのなんだのってモヤモヤしてるひとってのは、自己の吐露と金銭の獲得つう2つの欲求をまぜこぜにしているのがマズいんじゃないかと云う話をしました。自己を「表現」するでもなく、ただ吐き出すことはそれほど難しいことではないような体感です。対して、他人からオゼゼを頂戴する、つうのは滅茶苦茶に難しいことです。でなけりゃ、日々生きるのにこんな苦労してねぇっての。

個性なり創作なりで飯を食べるつうのは、鑑賞者の心に残ったなんらかに対して値をつけてもらって、対価を受け取ると云うことです。いかなる手段を講じてでも相手が値をつければお金になるというだけのことで、そこには個性があるとか無いとかは無関係です。実は、ひとが値段をつけなければ価値があるとか無いとかも些細な話です。極端な例で言えば、画家のゴッホは生きてる間に殆ど絵が売れなかったそうです。今でこそ、何十億とかアホみたいな値段がついてる絵ですが、当時は価値を見出すひとがいなかったと云うことすね。生前に限って云えば、ゴッホもそこらへんでグダまいてるNEETと変わらんちうと言い過ぎか。

で、ようやく出てくる「模倣」のためのお手本ってのは、他人に値段をつけてもらうためのエッセンスです。人類が長い時間をかけて吟味してきたオゼゼをもらうためのカンペです。模倣を嫌がるひとは、なんでそれを使わないの?と疑問が沸くよね、つう話です。画家のピカソが即興で作った作品に100万だかの値を請求したら、「10分で作った作品にそれはひどい」って言われて、「いや、これを作るのには人生43年+10分かかった」と答えた…みたいなエピソードがあるらしいんですが、それと同じで、人類の歴史500万年+10分の作品がお前の人生たかだか20年+10分で太刀打ちできるの?ってことですね。

なんか見てると、ただ欲求に任せて自己を吐露してるだけ(に見えること)で大金を得ている(ように見える)アーティストの存在が夢見がちなひとを生む元凶のような気がしますね。まーあのひと達は、世の中のニーズに沿った作品を提供しているからこそ大きな対価を得ているわけなんですが、仮にあのひとたちが本当に勝手気ままにエゴを剥き出しにしているだけと仮定したとして、それは要するに、あのひとたちのエゴが世の中のニーズにたまたま合致してただけのことであって、それをアテにして勝手気ままするのは、宝くじが当たることを前提に人生設計するのと等しいですよね。。。それは止めたほうがいいぞ…。

お金、お金、ってしつこく云って、「俺は金のためだけに活動してるんじゃない」て反発されそうな気がしますが、「他人の評価」ってのを客観的に測ることのできるバロメータってお金くらいしか無いんですよね。身銭を切らないで口だけ評価ならいくらでも云えますから、「神」とかインフレを起こすだけで結局判断材料になりません。それに比べたら「1まんえんの値がついた」なら、かなりの評価がついたと客観的に云えます(まあ、ゴッホの例とか鑑みるに、「いくらかマシ」くらいですが)。

そんなこんなでekiさん仰るところの

とかく模倣というと没個性を先読みしてしまって取り組む前から萎える人

が漫画家志望とかだったりすると、「いやいやそれは無いから」って思うわけです。逆に、「いや、俺は生活とか関係なく好きにやりたいだけだ」と云うなら、まあお好きになさればよいと思います。ただ、社会性0に自分だけの閉じた世界でクニクニし続けるのに耐えられるひとってのもそんなにいないから、ある程度は、他人に歩み寄って模倣することも必要ですよね…。

…と、ナアナアで終わらせてしまうw