最近、「出来ない」と云う言葉に違和感をおぼえることが多くあります。一番嫌いなのが「自分には才能が無いので出来ない」と云うやつなんですけど。

「出来ない」と云うのも結構便利な言葉で、色々な場面で多く使えると思います。適当に挙げると、、、

  • 人間は空を飛ぶことが出来ない…人間の身体特性から空を飛ぶ機能を有するのは、訓練を経てもまず無理
  • ゲームしたいけど忙しくて出来ない…ゲームを遊ぶのは容易いが、他に優先順位の高い行動が残っているため、ゲームをしない
  • 才能が無いので、プログラムを書くことが出来ない…訓練によっての確実な向上はあるものの、人生の時間に対して十分に小さい時間で成果が得られないため、プログラムを書かない
  • 女子高生と出来ない…社会からの制裁が大きく、人生がずたずたになるのでやらない


…と、いい加減に挙げましたが、「出来ない」ことには「やらない」と云う自身の判断が含まれてるものが多くあると思うのです。自身の判断があるからには、相応の責任が所在しているとは云えませんか。

勿論、素養だとか環境だとか、外的要因も少なからずありますので、それを理由に諦めるだとか停止したりすることを悪いこととするわけではありませんが、あくまでも、最終的な決定は自分によって為されていることを考えてみて欲しいのです。

「才能が無いから」と云う発言には、自己の決定に対する責任を外因に押し付けているように見えて仕方無いような気がします。

本当に必要だと思っているのだったら、たとえ浪費であろうとも注力を続けるべきだし、それが無駄だと判断するならスッパリ諦めて、足りないことに対するリスクは負う覚悟をした方が気持ちよく生きられる気はしますね。