ワタクシが絵に求める価値

折々再三云ってゐることではありますが、ワタクシは絵に掛かった時間とか技巧なんてものにはさほど興味はありません。さらに云えば、一般に時間と技巧は別物ですが、技術は時間によって向上するとすれば、同じとも云えます。
そう云うわけで、ワタクシが好い絵だと感じるのは、何か込められた絵。ワタクシが「オチのある」と呼ぶものです。オチは瞬間的な一発ものもよいですし、推敲に推敲を重ねたものも味わい深いですね。オチこそが、作者にしかない、ユニーク性を持つのではないかと思います。

いわゆる、「絵柄」と云うものがありますが、これがオチの一例と呼べるかもしれません。絵を褒めるときには、「上手い絵ですね」の他に「好みの絵柄です」と云うものがありますけれど、個人的には後者の方が云われて嬉しい気が致します。
基本的に、絵を描く方は「自分の描きたい絵を描く」練習をするかと思いますが、逆に云えば、その人が描く絵柄こそがその人の理想の絵と云えるでしょう。そのひとの価値観、しいてはアイデンティティが内在しているとすら云えるかもしれません。「下手な絵だ」と云われたなら、時間で足りない技術を埋めればよい。しかし、「駄目な絵柄だ」と云われたら、それまで生きてきた人生、その人自身の否定ともなり、どうしようもなくなってしまいます。
絵柄を認められることは、自分をを認められること。人間としての価値を認められることである…と云うのは流石に云いすぎですね。

ひいき目に見ても下手なんだけれども、にじみ出る魅力がある。若しくは、自分との波長があっている。そう云う絵を描く方って実際にゐらっしゃいますし。偉そうな物云いですけど。

「下手でもビビっとくる絵の方が好きだ」なんとなく、優しい感じの言葉ですけど、逆に云えば、「魅力の無い絵はどんなにすごくても(努力しても)認めない」とも云え、非常に酷いスタンスのようにも思います。